もう入る側も、受け入れる側もなかった。
彼女の手が僕の手の中で溶ける。
いや、手の形はまだある。けれど、その境が曖昧になる。指と指の間にあった空気が消え、皮膚の温度が混ざり、どちらの脈がどちらのものかわからなくなる。彼女の呼吸が僕の胸に入り、僕の血の冷たさが彼女の熱を受け取る。
白い船体が軋んだ。
盗んだ機関船の板が、骨のように柔らかく鳴る。金属の舵輪が蔓のようにほどけ、真鍮の計器が瞼を閉じるみたいに光を失う。燃料缶が床で転がり、中の油がこぼれたはずなのに、火は出なかった。油は翠の光に触れて、夜露のように澄んでいく。獣の心臓だった機関は沈黙したまま、もっと静かな鼓動へ変わった。
僕の肋骨が広がる。
彼女の喉が細く伸びる。
どちらのものともつかない薄い膜が、船縁の内側に張られてゆく。血管が索具になり、傷跡が木目になり、彼女の赤い髪が船首の飾りのように流れる。僕の重たい身体は軽くなり、彼女の軽い身体は確かな輪郭を得る。僕達は、何かに吸収されているのではなかった。
生まれている。
二人だけで。
その時、僕は彼女の名前を思い出した。
あまりにも唐突に、あまりにもはっきりと。
忘れていたはずの音が、霧の奥から灯台の光のように戻ってきた。彼女が幼い頃、雑貨屋の老女に呼ばれたのかもしれない名。店の帳簿の端に書かれていたのかもしれない名。僕が何度聞いても覚えられず、紙に書こうとすれば彼女がくしゃっと丸めてしまった名。
彼女の名。
呼ぼうとした。
けれど、呼ぶ前に、呼ぶ者と呼ばれる者の境はほどけた。
名前は、こちらとあちらを分けるためのものだった。私と私を分け、呼びかけ、振り向かせ、見つけるためのものだった。けれど今は、分けるものがなかった。私の記憶が私の記憶に流れ込み、私の痛みが私の熱に包まれ、どちらの目で海を見ているのか、どちらの胸で光を受けているのか、もうわからなかった。
それでよかった。
すべての始まりにして終わり、エルドリッジの光は私達を新たな一つの舟として生まれ変わらせた。
月光に輝く、小さなゴンドラ。
水路ではなく、満ちたる海路をゆくための舟。
私達は私達以外の血肉を必要とはしないだろう。飢えて人を喰らう必要も、船団に加わって誰かを取り込む必要もない。私は私とだけある。私達は私達だけで満ちている。小さな船腹には、二つで一つになった鼓動があり、舳先には赤い髪にも似た細い繊維が揺れ、内側には灯台の光の記憶が、まだ温かく灯っていた。
遠くで、エルドリッジが静かに身を引く。
屍肉船達は道を開けたまま、私達を見送る。
海は夜だった。
町も、森も、城も、灯台も、すべて霧の向こうに沈んでゆく。けれど、恐ろしくはなかった。どこにも帰れないのではない。帰る必要がなくなったのだ。岸は、分かたれた者が戻るためにある。私達にはもう、岸が要らなかった。
彼女の名を思い出した事を、私は覚えている。
けれど、その名を呼ぶ必要がない事も、同じように知っている。
未来永劫、人の世が終わっても、融け合った魂と血肉の舟は群青の波に揺蕩う。
まるで幻想。
乗船日和 おわり
