不在の天使 - 13/13

 絵は、修復されなかった。
 修復できなかったのではない。修復しない方が価値があると、誰かが言ったのである。その誰かが誰であったかは、もはや問題ではなかった。画商か。批評家か。美術館の学芸員か。新聞の文化欄か。いずれにせよ、彼らはいつも同じ声で話した。
 切り抜かれた絵は、額縁に収められたまま保存された。
 画面の中央には、女の形をした穴が空いていた。終末の空は残っていた。翼も残っていた。白い後光も残っていた。墓標のような遠景も、灰色の大気も、すべて残っていた。
 ただ、そこに立つべき女だけがいなかった。
 批評家たちは、それを画家の最高傑作と呼んだ。

  ◇

『焼けた天使』から『天使の不在』へ
作家自身による破壊と救出
肉体の消失が完成させた、現代終末絵画の到達点

  ◇

 見出しは、相変わらずよく喋った。
 彼女の死についても、彼の凶行についても、世間はすぐに語り方を見つけた。悲劇。愛。狂気。芸術。贖罪。事件。伝説。そうした言葉は、蠅のように集まり、やがてひとつのもっともらしい物語を作った。
 美術年鑑には、彼女の名ではなく、あの呼び名だけが残った。
 火中の天使。
 焼けた天使。
 天使の不在。
 名は、ついに欄外にも載らなかった。
 彼はそれらを、ほとんど読まなかった。
 読まなくても、だいたいわかったからである。
 切り抜いた絵画の布片も、彼の手元へは戻らなかった。
 彼は抵抗しなかった。
 抵抗する力がなかったのではない。
 もう、何を相手に抵抗すればよいのかわからなかったのである。
 彼は画壇から遠ざけられた。画商とは決裂した。損害賠償の話もあった。いくつかの手紙が届き、いくつかの依頼が途絶え、いくつかの奇妙な賞賛が匿名で送られてきた。
 彼は、天使を描かなくなった。
 それどころか、人の姿をほとんど描かなくなった。人物を描こうとすると、画布の上にすぐ額縁が見えた。照明が見えた。札が見えた。見知らぬ者たちの顔が見えた。彼らは絵の前に立ち、彼の描いたものへ名をつけようとしていた。
 彼は、静物を描いた。
 花瓶。
 椅子。
 伏せられた鏡。
 磨かれた流し台。
 片方だけの白い手袋。
 火傷薬の小さな瓶。
 水を替えられなくなった椿の枝。
 台所の棚の上に残された帳面。
 それらの絵は、誰にも見せなかった。
 見せるということが何であるか、彼はようやく知ったのである。遅すぎる理解であった。いつも、人間の理解は遅い。手遅れになってから礼儀正しく到着する。招待状を持って、焼け跡へやって来る。
 彼の家は、静かになった。
 以前も静かではあった。だが、彼女が来る前の静けさと、彼女がいなくなった後の静けさは違った。前者は空白であり、後者は不在であった。不在とは、かつてそこに誰かがいたことを、あらゆる物が覚えている状態のことである。
 彼が描く終末は、墓標のような都市と、割れた大地と、肉片の怪物を連れていた。
 だが本当の終末は、もっと小さな顔をして来た。
 流し台は、少しずつ曇った。
 椿の枝は枯れた。
 帳面は、ある頁で止まったままになった。
 世界は滅びなかった。
 彼の家だけが、彼女を失った分だけ、静かに終わった。
 彼は時折、帳面を開いた。
 そこには、彼女の小さな文字が残っていた。
 花瓶を洗いました。
 右奥の窓が閉まりにくくなっています。
 今日は雨漏りを確認します。
 仕事は続けます。
 最後の頁には、彼の文字で、ただ一度だけ彼女の名が書かれていた。
 呼ぶためではなかった。忘れぬためでもなかった。
 名を、名のまま置いておくためであった。
 彼女は天使ではなかった。
 火中の天使でも、焼けた天使でも、天使の不在でもなかった。
 戦災孤児でも、元容疑者でも、画家のミューズでも、悲劇のモデルでもなかった。
 それらはすべて、彼女を外から囲む額縁であった。
 彼が切り抜いたのは、絵の中の彼女だけである。
 現実の彼女を救うことは、ついにできなかった。
 その夜、彼は小さな画布に椅子を描いた。
 古い肘掛椅子であった。モデルの椅子。緑の布は褪せ、肘掛けには細かな傷があった。椅子には誰も座っていない。背後に翼はない。後光もない。終末の空もない。
 ただ、椅子だけがある。
 そしてその椅子の座面には、ごくかすかに、人が座っていたあとにしか残らない沈みがあった。
 彼はそれを描いた。
 描き終えてから、布をかけた。
 誰にも見せなかった。
 その絵だけが、彼女に少しだけ似ていた。

不在の天使 めでたしめでたし