大都会の夜空に、馬の嘶きが谺する。摩天楼の明かりに星々の灯火は掻き消されているが、唯一、この地上の煌めきだけは霊妙に輝く。
「絶対にメリーゴーランドには近寄らないでください」物音がしても、動いているように見えても……採用担当は斯く警告した。
しかしこれは、物音がする、という閾値を超えている。
ふいごに押し出された空気が奏でる三拍子。ぎしり、じくり、みちり……それは、地獄の蹈鞴で吹き込まれた魂の呻きである。遍く照らす陽光と昼の喧騒の下では鳴りを潜めるその音が、閉園後の園内ではよく響く。そして嘶きじみた悲鳴も。
二層式の絢爛殿堂は軋みながら回転し、光の渦と苦悶の絶叫をゆったり振りまく。支柱に貫かれた馬や獅子、象に馬車、鵞鳥や気球が揺れに共鳴して痙攣し、どす黒い血を噴き上げる。
褪色して上品さの増した塗装の下、煌びやかな闇に透けるのは人の名残。獣のように曲がり拘縮した四肢。裂かれ、縫い合わされ、人皮にくるまれた臓物が生々しく脈打つ。獣面から幽かに覗く眼光は窮愁と恐怖に濡れ、彷徨う。そこには確かに魂がある。加虐されて潰れた魂が。
「御照覧あれ。これなるはカール=レフの肉馬殿堂」地を這い、足底から脳天まで響いてくるような声が園内を撫でる。「蹄の音は断末魔。脂の煌めきは、かつて姿を奪われた人間の皮膚」肉の木馬達が一斉に絶叫する。尊厳を奪われ獣に堕とされた、かつて人だったものの呻吟。「心棒に吊られるは“無辜”。あれこそは、吊られた騎士。遍く威光を艶羨され、己を奪われ永劫を回る者」
回転軸に設えられた麗しい天使の彫像が熟れた果物が弾けるように剥け、錆びた全身甲冑に身を包んだ宵の騎士が現れる。
「ようこそ。忘れ去られた器物達が、今際の交合を希う宵に」
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「カルーセル・ド・カール=レフ」は、この遊園地一番の目玉だ。原型が生まれたのは十五世紀。カール=レフという領主が、己が騎士達に騎乗訓練をさせるために作らせたという。
時代が下がるごとにカルーセルは改造され、無骨な騎士の乗り物から、優美な貴婦人を思わせる絢爛豪奢な遊具になった。そして幾度の興亡を経たのか、今はもはや知る者もないが、この遊園地の開園に合わせて「世界最古の回転木馬」と鳴物入りで舶来した。入場ゲートをくぐれば、見通しの良い目抜き通りの果てにそれは鎮座している。まるで玉座に腰掛ける女帝のように。あらゆる動線の交わる場所にして、あらゆる人々の幻想を宿す記憶の核。
ビルの聳えたつ市街地の只中に穿たれた余白――それがこの遊園地だった。小規模だが、週末に一日楽しむには十分。幼い頃、由羅も親に連れられてよく訪れた。
最も昂ったのはお化け屋敷だ。未練ある怨霊や理不尽な怪物の存在に、自分の理不尽を刹那忘却できる。しかし一番心安らいだのは、カルーセルに乗っている時。親の付き添いなく乗れるのはこれくらいで、乗りたいとせがんでも、ぶつぶつ文句を言われずに済む。丸一日乗り続けた日もあった。
金襴緞子を思わせる精緻な紋様の入った白馬の背に乗り、ぐるりを巡る。ベンチで携帯を見る親に追いついてはすれ違い……由羅を見守るのは天使のレリーフだけだ。親が由羅を見るのは加虐する時だけだった。遊園地に連れてこられるのは決まって、“やり過ぎた”翌日だ。
――いなくなればいいのに。
そう、冷たく凍える吐息が廻る空気に滲んだ。
ある真冬の日、木馬に揺られながら冷たい空気で腫れた瞼を冷やし、乾いた涙の張りつく頬を切り裂かれながら由羅はぽつりと呟いた。
馬が嘶き、その音に心臓がぎゅうと鷲掴みにされる。
「承知した」
まるで天から由羅にだけ降り注ぐかのような声。由羅はその源を仰ぎ見る。天使の目が、駆け抜ける由羅をひどく生々しく追っていた。幼子の頬の涙を舐めとるかのように妖しく光る眼差し。生きた人間のように、血走って揺らめき潤った……。
次にベンチの前を横切った時、親の姿はなかった。
それ以来、彼らには会っていない。
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血の滲むような軋みを最後に、回転は止まった。夜警――由羅は過去から浮き上がる。まるで走馬灯を見ていたかのようだった。幼き頃の慰めの輝きが、宵の煌めきと重なって見えていたのだ。
由羅は忠告も忘れて――いや、覚えていたが守る気は毛頭なかった――カルーセルに一歩一歩近づく。酔っているような、光に目を焼かれたかのような歩き方で。
柵を越えニス塗りの木板に乗ると悲鳴は絶えて、馬や獅子、象の眼差しがじっと由羅に注がれる。馬車や、二階に設えられた気球や鵞鳥のそれも。何もかもが人間の成れの果てだった。音楽を鳴らすパイプは引き延ばされた気管。天幕は継ぎ接ぎの皮膚。艶やかな装飾アーチは、骨と臓物の絡織で編まれていた。
陽光によって隠されていた真の姿が没日のもとに晒される。それらはもれなく蠢き、まだ生きていた。いや、死んでいない、と表現した方が正しい。
肉車殿堂……その名こそふさわしき、肉と臓物、人皮の饗宴。
木板が軋むたびにじわりとぬるい血が滲み、ブーツを濡らす。まるで老いた皮膚。
恐怖はなかった。覚悟はとうに定まっている。人間二人を跡形もなく消すという究極の離れ業をやってのけた相手だ。見返りを求められたならば、すべて差し出すつもりだ。そのためにこの仕事を探し出した。
「わたしを助けてくれた、天使ですか」
由羅は、天使の彫像の下に隠されていた吊られた騎士を見上げる。赤黒い鎖に蛇のごとく絡め取られた騎士は、微かに首を横に振った。
「そのような身分ではない」身動ぎする度に、一音発する度に、赤錆びた全身鎧の継ぎ目から粘ついた血が噴き出す。「ただの定命の者」暗き冑の奥、血走った双眸が幽かに逸れる。
確かに姿形は天使とは程遠い。そして人にも到底見えない。けれど、由羅に対する行いは確かに天の配剤だった。
あの日――両親が忽然と消えた日、由羅の育ての親は遠方で農場を営んでいる遠い親戚ということになった。なっていた、という方が正しい。迎えに来た親戚夫婦は、泣きながら由羅を抱きしめた。彼らの中では、由羅は赤ん坊の頃から育てた、実の娘同然の存在だったらしい。
後になって知ったのは、由羅が“忽然と姿を消し、遊園地で発見された事件”は、当時ひそかに神隠しとして語られていたということだ。
「感謝しています。新しい両親はとてもいい人達でした。弟もいます。馬鹿ですが、とても仲がいいです」
騎士はただ、ゆっくりと頷いた。満足そうに、微笑むように。
「お礼を言いたいとずっと思っていました。こっちの大学に進学して、昼間何度もここに通いました。けど、もう昼間にあなたの声を聞くことはなかった」
「あの時に、残る妙技を使い果たしてしまった。お蔭でここも、随分寂れた」
地域住民に惜しまれながらも、遊園地の完全閉園は今日。お世辞にも今時風とはいえない遊園地が存続していたのが、この世界最古の二層式カルーセルの神性によるものなのだとして、それをすり減らしたのが由羅の願いなのだとしたら、ひどく申し訳なかった。
「わたしにできることがあったら何でもします。そのつもりで来ました。命でも、魂でも、なんでも。もう十分です。早晩なくすはずだった命を、こうして幸せにながらえさせてくれた」
「命など」騎士は毅然とした声色で言う。「不要」
由羅の顔が耳まで赤く染まる。目の奥が熱くなる。自分の命が何かの代償足ると思い上がっていたのを恥じて。
「しかしもし、この哀れな器物への慈悲を抱いているのならば」
由羅は頭が首から外れんばかりに頷く。
「錬金術師以外の精を受けることこそが、我らをこの肉の軛から解き放つ鍵」じゃらり、と鎖が鳴る。吊られた騎士が舞い降りる。「私と交合して欲しい」
由羅はぼうっと導かれるように、血に塗れて錆びた手を取った。
「我はカール=レフ。姿を簒奪されし者」
肉馬の嘶きが夜の星々に響き渡った。
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歓喜とも悲鳴ともつかぬ血の軋みをあげ、カルーセルが再び巡る。過去へ、大いなる過去へ……。
カール=レフなる男は、公明正大にして誠実な伯爵であった。星を支える広肩、戦槌を思わせる腕、肥沃な畑のごとき胸板、そして地に根を張る大樹がごとき下腿。鎧を外せば、闘いに鍛え抜かれた筋肉は大理石の彫像よりも剛健で、しかし鉄錆のような生々しい血潮の匂いを放った。美貌は綺羅星のごとく、整った精悍な顔立ちに紅潮した頬、額に伝う汗さえ艶やかであった。女は熱い吐息を洩らし、男は抑えきれぬ羨望を瞳に宿した。戦場では猛る獣、宴では黄金の花。その両義が、彼を一層淫靡に際立たせた。
広大な領地は常に青々と輝いて、領民からの信頼も厚かった。
その威容は凡俗には決して手にできぬ輝きであった。その事実こそが、ある男の胸に穢れた焔を灯した。羨望と憎しみの混ざり合った、緑色の炎を。
ある妙な空模様の黄昏時、その男はカール=レフの城に現れた。自らを錬金術師と称する小男は、一夜にして大伽藍もかくやたるカルーセルを顕現させた。その妙なる機構、精緻なる造作に、誰もが息を呑んだ。
こうして錬金術師はカール=レフの懐に潜り込み、そのすべてを簒奪した。
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冷たい石壁に異貌の影が揺らめく。振り子のように揺れる人影、そして回転する獣。絶叫と断末魔、そして鎖の音が狂乱の熱を裂く。
「もうやめてくれ」
梁から吊り下げられたカール=レフは悪逆非道の徒に血の滴る声を向ける。制止の効く相手ではないと、これまでの狼藉で十二分に分かっている。しかし苦楽を共にした家臣や臣民達が非道な目に遭っているのを黙って見ていられるほど、彼は非情でも気丈でもない。
当然、手も足も出ない肉塊の言葉など、暴虐の手を止めるには能わず。錬金術師は今し方作り終えた馬を回転する台座に設置し、次の素材を作業台に引き上げる。それはカール=レフの忠実なる騎士が一人。鍛え上げられた若々しい肉体も、いまや錬金の霊薬によって自由と感覚を冒されていた。
「ふー……ッ、覚えておけよ、この老いぼれ、いつか必ず」復讐する、と吠え立てるつもりだった声は「い゛ぎッ、ほぎゃ……ッ!?」悲鳴の血泡となって潰えた。
白目を剥き涎を垂らす姿は、さながら狩られた獣。その形容に相応しく四肢は逆位に捻られ、四つ脚に陶冶される。そこへ灼けた蹄鉄が直に打ち付けられ、皮膚と癒着し、焼けただれながら溶融する。胸の悪くなる臭いが室内に充満する。
獲物扱いの騎士は四つ這いに固定され、脊柱を鉄芯に貫かれる。背筋はしなやかに優美に反り、強度を増す。「ひぎゃッ、ぉ゛お゛……っ」背骨を折られて冷たい金属を挿入される激痛に騎士は悶絶し、痛みにも関わらず、或いは痛み故か陰茎は無惨に震え……零れる尿と白濁。
霊薬は性感を捻じ曲げ、いかな拷問でも陥落せしめなかった強靭な人格に無様な声を上げさせるほどの荒廃を齎していた。
「お゛ッ、お゛ぐッ、ごえ゛……っ」
節くれ立つ指が、腹を裂いて臓腑へと潜っても――洩れるのは、もはや湿り気を帯びた喘ぎのみ。
腑と肛門の位置すら思うままに弄ばれ、冒涜的に練り込まれる。血の染み込んだ卓の上に、さらに生温かな命の残滓が流れる。骨と肉、臓物の捏ねまわされ変容させられる音と残滓のなんと鮮やかなこと。
「ぷぎぃッ、ぎょぷぇッ――!?」
内臓すら悪徳の手によって人としての位を剥奪され、そこにあるのはもはやただの肉馬。
騎乗しながら背に移設された肛門を使用できるよう、穴の開けられた鞍が背に取り付けられる。
そして金糸で皮膚に直に刺繍される豪奢な紋様。この段に至れば、針を通されても反応は鈍い。これまでの刺激に比べれば些細であるからか、あるいは激痛に従順になったか。
装飾が終わると、舌を力任せに引き抜かれ、代わりに喉奥まで挿入される笛管。騎士の呻吟は、これにより音楽となる。
最後は馬を模した面で顔を覆われ、残るのは目元のみ。屈辱と歓喜の涙がかつて騎士だった男の目を濡らし、映りこむ燭台の焔を震わせた。
錬金術師は、また一つ完成した肉馬の尻を平手で打擲し、回転する台座に設える。騎士団一番の騎乗の名手は、今や自身が乗られるものとなった。悍馬の胴を引き締めたその大腿は、もはや地すら蹴ることすらない。
カール=レフを慕っていた者、あるいは錬金術師を警戒し、疎んでいた者はこうして肉獣に変容させられ、回転木馬に据えられた。
筋骨隆々たる騎士の長は山越えも厭わぬような戦象に。恐れを知らぬ隊士は獅子に。猜疑心の強い顧問官は鵞鳥に。錬金術師によって家族を連れ去られたと糾弾する者は気球に……。
かつて人だった者達が仄暗い地下で踊るようにゆるりと回る。それは回転木馬と呼ぶにはあまりにも血肉に塗れている。絢爛たる肉車殿堂と称するに相応しい。
その回転軸に吊り下げられたカール=レフは、すべてをつぶさに観測させられていた。臓腑を暴かれ、組み替えられ、器物に作り変えられてゆく家臣達を。
目を背けたいが瞼はもうない。噛み締める唇も。
全身の皮膚は脱衣するかのように削ぎ落とされ、失われたものの代わりには到底ならない無骨な鎧を着せられていた。容色の失われた肉に鉄がぴたりと吸い付き、剥き出しの肉と神経を苛む。
それでも彼は……彼らは生きていた。いや、死ねないのだった。
廻る殿堂は一種の儀式にして供物であった。肉車殿堂が円環を描く限り器物の苦痛は絶えない。そしてその苦痛が錬金術師と、それの据えられた地へ、とこしえの活力と繁栄を約束する。
今やカール=レフの皮を纏い、容貌魁偉な領主に成り代わった錬金術師が、低く艶めかしい声で笑う。
畏れの熱気に石壁に雫が滲む。
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