夜の帷、霧のスクリーンに浮かんでは消える光の摩天楼。
ぐるぐる回る灯台の光源にかざした小さな半透明の写真を通して、分厚く立ち込めた霧にありし日の大都市の幻影が浮かび上がる。
天に掲げられた剣のような高層建築群も今となっては見る影もなく、森に没して墓標となるか朽ち果てて跡形もなくなっているか、その切ない二択しかない。
かつての海は連絡船や貨物船が何の不自由も不安もなく行き交い、夜になればあの建物の窓の一つ一つが文明の燈で煌びやかに輝いていたのだ。俄には信じられない。
僕が生まれるよりずっとずっと前の話だ。雑貨屋の老女でさえ、旧時代の文明の恩恵にあずかってはいないだろう。僕達が今そうしているように、その残り香を必死に手繰り寄せては幽かな気配が再び霧散するのをただ見つめるだけ。
光源にかざす写真を取り替えて、天然のスクリーンに新たな情景を映してゆく。海辺の遊園地や、ネオンサイン煌めく劇場街や、荘厳な建築様式の駅舎。膝の上に置いた古い煮沸用のブリキ缶の中にはまだまだたくさんの文明の輝きがある。
これらの写真の入った煮沸缶は雑貨屋の老女の自室で見つけた。『白鯨』や『怒りの葡萄』と一緒に丁寧に紙で包まれていた。間違って店に出してしまわないように、密やかに匿っていたのだろうと感じた。
「子供の頃、よくお婆さんとカンテラの灯りで壁に映して見たものだわ」
背中にかかる心地よい重さ。床に座り込んだ僕の背をクッション代わりにして凭れる彼女の小さな吐息が首筋を擽る。とても心地がいい。
「懐かしいわ。あなたが片付けを手伝ってくれていなければ、たぶん一生見つからないまま埃をかぶっていたでしょうね」
彼女の手が前に回ってきて写真の一欠片を摘む。その白い指に輝く指輪。飾りはなく質素だが、彼女の指にはひどく似合っていた。同じ物が僕の指にも嵌っている。つまり僕達は結婚したのだ。今もって信じがたかったけれど、互いの指に煌めく指輪が確かな証拠。
きりりと寒くて、冴えた太陽が新雪を輝かせていた冬の朝、ワッフルを食べながら彼女は唐突に、結婚してくださらない、と言ったのだ。
僕は驚いて無様にフォークを取り落としたけれど、もしや聞き間違いか幻聴かと思うと何も言えなくて、フォークを拾って俯きながら朝食の続きを黙々と食べ続けるしかなかった。僕はどうしようもない卑怯者だ。
そのあと僕が彼女の家の前の雪掻きに勤しんでいると彼女は窓から顔を出して、窓枠に頬杖をついて白い息と共にこう宣言した。
「あなたはわたしと結婚するの。これは命令よ」そして彼女の形の良い唇が僕の名を鋭く発する。まるで僕の上官であるかのように。
語気の強さとは対照的に震えていた彼女の長い睫毛に、雪のひとひらがふわりと着地した。それを皮切りに穏やかに雪が降ってきた。
僕はシャベルを放り投げて窓辺に走り、雪の中に膝をついた。
そこからの話は早くて、その足で教会に向かって誓いを立てて、晴れて僕達は神と人間社会に夫婦と認められた。
彼女とはもう何度も何度も口付けしたはずなのに、バラ窓の下で交わすとひどく初々しく瑞々しく感じられた。
唇を重ねることには未だ少年のようにときめいてしまうけれど、その後に控える初夜に関しては僕はあまりにも熟れすぎて、歳も取りすぎていた。彼女の熱が冷めてしまうのではないかと心配した。初夜離別なんて最悪な言葉さえ思い浮かんだ。けれど彼女も僕と同じようなことを案じていたのだった。
「わたし、今まであなたに恥ずかしい所をたくさん見せてきてしまったから」ベッドに腰掛けた僕の前に立った彼女がもじもじとはにかんだ。たまらなく愛らしかった。箱に入れてずっと大事にしまっておきたくなってしまうほど。「結婚初夜という感じはしないでしょうけれど」
僕はたくさんたくさん頭を振った。恥ずかしいなんてとんでもなかった。彼女はいつだって初々しくて清廉だ。現に月明かりに照らされている彼女は、精霊とか、天使とか、この世のものではないものに見えた。
「あなたは優しい人ね」
彼女の方が千倍も万倍も優しい。本当に本当に愛している。僕はそういう想いを乗せて彼女を腕で包み込んだ。華奢な彼女を壊してしまわないように、慎重に。彼女のささやかな温もりが伝播して、僕の身体が芯から熱くなってくる。
「あなたはいつも初めてのような反応をするわね。恥じらって、頬を染めて」
今もそう、と彼女は僕のシャツのボタンを外しながら言った。そりゃあ、彼女みたいにきれいな人にこんな事をされたら誰でもそうなるのじゃあないだろうか。
躍る息に胸が震えると先端につけたピアスが艶っぽく揺れて存在を主張してすごく恥ずかしい。
「ピアスもすっかり馴染んだみたい」
乳首に開けたピアスの穴は既に傷ではなく、皮膚になっていた。ひと月くらいかかったろうか。こうなるまで彼女が僕の胸にしてくれる事といったら、傷口が膿まないよう注意深く消毒するくらいのものだった。
消毒液が染みる痛みも、ふわふわの綿花で撫でられるこそばゆさも、どちらも気持ちよかったのだけれど。
傷が治ったらお胸もたくさん可愛がってさしあげる、と彼女は言っていたのに、待ちきれなくて僕は……。
彼女の細い指先が僕の胸の先端を掠める。その一撫でで、僕の身体は必要以上に反応した。
「あっ……あっ……ぅあ……」
上擦った情けない声が出て、肛門が彼女を求めてきゅうと締まって、ついでのように陰茎が漲る。腰の奥がぞわぞわと快感に蕩けて、まるで快感を覚える神経全部が乳首に集まっているかのようだった。そこが快感の源になるなんてこうなるまで知らなかった。
「すごく敏感。すこし刺激しただけで胸も、下も、張ってしまって」
「ぁ……じぶん、で……さわって、た、から……」
正直に白状すると羞恥やらなんやらが洪水のように押し寄せて、脳が溺れてぼうっとしてくる。
「待ちきれなかったのね」
「ごめ……なさ、い」
いいの、と言って彼女は僕の額に優しくキスしてくれた。そうしてくれるのがわかっていて謝った部分もある。僕は彼女の前ではたまに狡くなってしまう。
「それじゃあ練習の成果を見せて」
羞恥に顔が痛むほど熱くなるが、彼女にそう言われてやらないなんて選択肢はない。彼女の言葉は絶対だ。
彼女の視線が傷だらけの歪な裸体に注がれているのを感じた。身が引き締まるような、蕩けるような、正反対の反応に苛まれつつ、僕はおずおずと自分の胸に手をやった。
掌で胸全体を包み込んで、ぎゅうと中心に寄せた瞬間に人差し指と中指で先端を強く挟む。胸の頂を貫く小さな銀の輪ごと先端を摘むと、皮膚の奥に埋もれていた神経が釣り針で引き出されるようにびくりと跳ねた。痛いわけではない。いや、少しは痛いのだけれど、それはもう傷の痛みではなく、傷だった場所が彼女のものとしてきちんと根を下ろした証のような感覚だった。
僕はその感覚が逃げてしまわないうちにと焦って、指の腹で潰すように乳首を揉んだ。膨らんだ胸の肉が掌の中で不格好に歪み、中心にある小さな飾りが硬い芯のように指先へ当たる。自分の身体なのに、そこだけ自分のものではないようだった。彼女が開けた穴で、彼女が通した金属で、彼女が治るまで毎日見てくれた場所なのだから、当然と言えば当然なのかもしれない。
だというのに、それを僕の指が乱暴に扱いている。
ひどく背徳的だった。盗みを働いているような気分さえした。彼女の所有物を、彼女の目の前で、持ち主の許しを待たずに触っている。
「まあ、そんなに性急に触っていたの」
窘められているような気にもなってしまう。
慌てて指を離すと、熱を持った乳首はぴんと立ったまま小刻みに震えていた。胸の先端だけが僕の意思から取り残されて、まだ彼女に見られ、触れられ、責められる事を期待しているようだった。実にいやらしい。しかも、そう見えたのはたぶん僕だけではない。
「叱っているわけではないの。見たいだけ」
彼女はそう言って、僕の手首にそっと触れた。細く白い指が、僕の節くれだった指を一本ずつ撫でて、乳首の上へ戻してゆく。その所作は小さな子供に字を教える時のように穏やかで、同時に、僕の身体の使い道を改めて教え込む調教師のそれでもあった。
「あなたがどうやって自分をかわいがっていたのか、わたしに教えて」
かわいがる、などという言い方をされると困ってしまう。僕がひとりでしていたのは、もっと浅ましく、もっと性急で、もっと救いようのない行為だった。彼女に触れられる日を待てず、傷が新しい皮膚に変わるまでの夜ごと、寝台の中で息を殺してそこを弄り、胸から腰へ落ちてゆく妙な快感に怯えながら、結局はそれを追ってしまっていた。
それを見せるのだ。
よりにもよって本人に。
僕は喉の奥で情けない音を漏らしながら、それでも逆らえず、彼女に導かれた指先を胸へ添えた。
まずはぴんと立ち上がった先端を指先でそっと突く。胸の奥から湧き上がってくる恍惚。ささやかな刺激しか与えていないというのに押し寄せてくる快感の大きさといったら。自分で弄りすぎたせいでこんな妙な癖がついてしまった。
乳首を指で挟み込む。力をかけたり抜いたりを繰り返すと胸の奥まで甘く痺れるような気持ちよさが迸る。彼女に自慰行為を見られていると思うと感度は尚更増して、口が勝手に開いて浅ましい息を吐いてしまう。
ズボンが窮屈になってきて、腰が勝手に引ける。早くその瞬間に到達したくて仕方がない。乳首を摘んで先端を爪で押し潰し、とにかくきつい刺激を発生させて追い上げる。乳首を捏ね回すごとに頭の中が快感に塗りつぶされてゆく。目に映るのは彼女の紅潮した満足そうな笑みだけ。
知らず知らずのうちに背が反って彼女の目の前に見せつけるように胸を突き出していた。脚は下品に開き、迫ってきたその瞬間に内腿がぶるりと震える。
「うぁっ、おぉ……んぉ……っ」
溜まりきった刺激が肉悦になって押し寄せ、暴発する。頭の中も服の中もぐちゃぐちゃのどろどろになる。果ての後の怠さに視界がぼんやり霞む。
疲労に垂れ下がった頭を彼女の柔らかな胸で抱かれて、撫でられる。絶頂した後の疲れ切った神経が鎮まってくる。
「お胸だけで達してしまうの、すごいわ。身体をもじもじさせながらいじって、絶頂して、すごくかわいかった」
少し落ち着くと、彼女はよくこんな醜い男の果てる姿を愛でられるものだなと、その感性が少し心配になったりもする。だからこそ僕なんかと結婚までしてしまうのだろうけど。
「うふ、あなたの服の中、ぐちゃぐちゃ」ズボンの上から揉みしだかれて放出した粘液が皮膚や体毛と絡まり、いやらしい音を立てる。「音がするくらい」
「ん、ぁ……ぅ」
恥ずかしさに打ちのめされ、やめてほしいのか続けてほしいのかさえわからない。ただ僕のそれは再び欲望を受け取り始めていた。浅ましくて淫らな、ひどい身体だ。
そんな風に心の中で自分を卑下しているのを見抜いたのか、彼女は僕の歪んだ唇を啄みながら言う。
「好きよ」
そうやって僕をあやしてくれる、美しい人。彼女の唇はこれまで触れてきた何よりも柔らかく滑らかで、官能的。
彼女は僕のズボンの前を開いてねばつくそれを取り出す。汚いからあまり触ってほしくないのだけど、彼女は精液でぬめる怒張を丁寧に支えて、その根元に銀色の環を嵌めた。金属の質感が火照った敏感な肌を焼くように冷やす。
「これ、つけるとすごく気持ちいいみたい。わたしもつけているから、お揃いね」
まるで結婚指輪だ。それも、すごく淫らな。そう思ってしまう自分自身が一番どうしようもなく淫らだ。
彼女の腕が僕の肩に巻き付いて身体が触れ合う。混ぜ合わさるように、一つになるように。
硬く聳り立つ彼女のそれが僕の腹を刺激する。いつも感じていることだけれど、彼女の肉の根はとても大きい。それが僕の中に潜り込んでくることを想像するとお腹の奥が熱くなってくる。
