不在の天使 - 3/13

 彼女が白椿館へ来たのは、まだ少女と呼ばれても差し支えのない年頃であった。
 そのころの彼女について正確な記録は少ない。残っているのは、役所の薄い書類と、施設の退所証明と、のちに新聞が好んで掘り返した断片だけである。戦災孤児。親族なし。複数の施設を経る。奉公先を転々とする。身元保証人は遠縁の知人。そうした文字は、彼女の人生を説明しているようでいて、実のところ何ひとつ語ってはいなかった。
 白椿館は、丘の中腹に建っていた。
 その名の通り、庭には椿が多かったという。しかし、彼女が雇われた頃には、花の盛りはとうに過ぎ、剪定されぬ枝が黒く絡み合い、古い生垣の奥で、赤い花だけが肉のように落ちては腐っていた。館の主人は美術品の蒐集家であり、また文化人の庇護者であったと自ら称していたが、その財産はすでにだいぶ細っていた。広間には古い家具が並び、壁には油絵が何枚も掛けられていた。だがよく見れば、額縁の金箔は剥がれ、絨毯には焼け焦げのような染みがあり、天井裏からはときおり小動物の走る音がした。
 彼女の仕事は、掃除、配膳、洗濯、灯油の管理、客間の支度、そのほか名のない雑用のすべてであった。白椿館にはまだ使用人部屋が残っていたが、その狭い部屋の窓は北を向いており、朝になっても明るくはならなかった。
 彼女はそこで、ある絵を見た。
 それは館の二階、あまり客を通さぬ小部屋に掛けられていた。ほかの絵のように、裸婦も、風景も、果物も描かれていなかった。題名の札もなかった。あるいは、あったものが失われていたのかもしれない。
 濁った空があった。
 その空は、灰色でも青色でもなく、汚れた水を長く放置したときの底の色に似ていた。地面は大きく割れていた。ひび割れの奥には、黒いものが見えた。土なのか、影なのか、あるいは地中に沈んだ何かの腐敗した背なのか、判然としなかった。
 遠くには、高層の建物が立っていた。立っているというより、折れずに残っている、と言う方が正しい。窓は黒く抜け、上階は斜めに傾き、いくつかは墓標のように並んでいた。その都市には、誰も住んでいなかった。住む者があったとしても、それは人間ではなかったろう。
 画面の中央から少し外れたところに、何かが歩いていた。
 それは獣にも人にも似ていたが、どちらでもなかった。いくつかの肉片を誤って縫い合わせ、そのまま立たせたような形をしていた。頭部らしきものはある。腕らしきものもある。しかしそれらは、正しい場所についていなかった。膝のあたりから別の手が生え、背中には顔のような皺が浮かび、腹部には暗い裂け目があった。
 彼女は、初めてその絵を見たとき、不思議なことに、息がしやすくなった。
 その絵は、彼女を慰めなかった。救いを約束しなかった。あなたは可哀想だとも、これから幸福になれるとも、失われたものには意味があるとも言わなかった。ただ、壊れた世界を壊れたまま、ひどく静かに差し出していた。
 彼女は、長くその前に立った。
 戦争で失われた家のことを、そのとき彼女は思い出したのかもしれない。施設の白い壁を思い出したのかもしれない。夜ごと耳の奥に残る遠い轟音や、名前を呼んでも返事のなかった人々のことを思い出したのかもしれない。
 しかし、彼女は泣かなかった。
 泣くには、その絵はあまりにも正しかった。
 白椿館の者たちは、その絵を好んではいなかった。主人は、変わり者の画家の珍品だと言った。御曹司は、趣味が悪いと言った。女中頭は、その部屋の掃除を嫌がった。だが彼女は、命じられればその部屋へ行き、命じられなくても時折、埃を払うふりをしてそこに立った。
 彼女は、その画家の名を覚えた。
 額縁の裏に貼られた古い紙に、かすれた文字で記されていたからである。
 それが、のちに彼女を雇うことになる男の名であった。
 もちろん、そのときの彼女は知らなかった。知らぬまま、彼女はその絵を愛した。愛した、と言ってよいならばである。人を愛するよりも前に、彼女は荒れ果てた地平と、墓標のような都市と、肉片を集めた怪物を愛した。
 それは、彼女にとって、世界が嘘をついていないというただ一つの証拠であった。